2006年11月02日
南インドの「生き神」
彼女は、「生き神」です。 🙄
南インドには、男尊社会のインドにあって、女神信仰が残存している地域です。
そこでは、
1.南インドに於ける『神』は、人間が生きる現実空間と同一平面上に存在しえる、
と考えられており、それが「生き神」を受容する背景となっている。
2.その背景には、ひとつのベクトルによる時間と空間の捉え方によっては把握しきれ
ない、循環し続ける『蛇の時間』を思考の根っことして根付かしている。
3. 『蛇の時間』は、女性性を示しており、それが女性、特に少女に女神が憑依するも
の、として理解される基盤となっている。
南インドのキーワードとしては、『女神』『蛇』が挙げられます。 🙄
そこを探る為に、インドの歴史を少し遡って見ます。
インダス川流域は、〈乾いた北〉から〈湿った南〉への、たび重なる文化の侵入の累積によって成り立っています。
具体的な流入の歴史は、先住民(オーストロアジア語族)、インダス文明(ドラヴィダ語族?)、アーリア人(インド・ヨーロッパ語族インド語派)、チベット系文化(チベット・ビルマ語族)、イスラーム文化(アフロアジア語族に起源)から、さらにイギリス(インド・ヨーロッパ語族ゲルマン語派)による植民地支配へと続いていきます。
中でも、アーリア人により追い出され南インドに逃れたドラヴィダ人は、現代のインド社会の基になっているカースト制度やマヌ法典に代表されるアーリア人の生活様式とは全く違った営みをしていたと想定されています。
彼らの特徴的な生活様式として、蛇、菩提樹、男根{リンガ}への崇拝と、牡牛、獣王(シヴァ神の原型?)、女神崇拝、瞑想や沐浴の習慣があったと推定されます。特に、インダス文明の都市遺跡モヘンジョ・ダロから発見された、踵を会陰部に当て、ペニスを勃起させながら瞑想する獣王の印章は、中世のハタ・ヨーガを彷彿とさせます。
これらから、ドラヴィダ人は性に開放的な(?)母系制社会を営んでいたものと想定されています。
後にこの地を支配下に収めたアーリア人が父系制社会を営み、女性に厳しいマヌ法典を定め統治したのはドラヴィダ人社会を完全に追いやる為だったのでしょうか?
南インドに逃れたトラヴィダ人にシャクティ信仰(女性を「すべての力と行動の源」とする概念)が根付き続けている現実に、人間のあるべき営みとは何かを考えさせられます。
by taiyaki
- posted by taiyaki at : 2006年11月02日 | コメント (3件)| トラックバック (0)
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comments
勇士婚であっても、母系制である限りは女の「力」は強かったんですね☆自らの氏族を守るため⇒みんなの期待から、男を見る目もすごくシビアになりそうです。
生殖過程は女が、闘争過程は男が主導権を握ってうまくバランスするようです。
女と言っても娘ではなく、母親やばあさんですが…。まさに女ボスが差配しているって感じ。
母系制だから、生殖⇒闘争課題もズレなくつながっていたこともポイントですね。
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