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2006年11月03日

インダス文明の先住人ムンダ人やドラヴィダ人は母系集団?

インダス文明の都市国家ってこんな感じ↓
2_1_01_01.gif
モヘンジョ・ダロの復元図
都市の概要は、
レンガで築かれた全長200メートルの波止場が築かれている
約4.8キロメートルの矩形をしていて、5階建てのビルに匹敵する高さの城塞があっ

城寒のなかには大きな穀物倉庫、儀式用の大広間、宗教儀式に関係していたと考
えられる大浴場があった
市街地が碁盤の目のように走り、大小の道路が東西南北に走っていた
道路の両側にはレンガ造りの住宅や商店が並んでいた
通りに面する側の壁には窓がなく、後ろの路地から出入りするようになっていた
その後、(モヘンジョダロに残る大洪水のあとから・・・)何回もの洪水によって、どこかの土地に移住した???
この時代にして、すごい技術だ!と思った人↓↓

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しかし、この文明の先住人は母系制集団であった事に、ますます謎が深まります。
>(中略)文字があったし(まだすべてが解読されていない)、十進法と六十進法を併用した計算処理もこなしている。けれども帝王崇拝の痕跡はない。そのかわりいくつかの進化した信仰が重なるように発展していた。
そうした信仰をかたちづくっていた原住民はムンダ人やドラヴィダ人である。母系制の社会だった。父よりも母を重んじた。古代プーナの陶工たちのあいだでは最も大きな水瓶は女が作ったことがわかっている。このことは古代インド史を見るにあたって重要な視点を提供するもので、のちの古ウパニシャッドやジャイナ教や『マヌの法典』にも、この母系制が残響した。
中村元『インド古代史』1963 春秋社
しかし、ここまでの都市国家を機能させる為には、統合者(支配者)が必要なことは必然です。
『インド古代史』にあるように「ドラヴィダ人が母系制の集団」とされているまではその通りとしても、都市の形成過程でその母系制は無くなったと考えるのが普通だと思います。
ドラヴィダ人の母系制は、都市の肥大と共に変化したがどの様に変化したのか?
ますます謎が深まります。
(ミネ)

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comments

掠奪闘争が始まる前、紀元前6千年~4千年頃(メソポタミア、ウバイド期)についてみても、「商」、「工」の芽生えが伺えます。
それは同時に、贈与(自らの部族の価値あるものを他部族に贈り友好関係を作ろうとした)の段階から、「交換」(部族同士が互いに相手に喜ばれるものを贈り合う)の段階へ発展した過程でもあったであろうと推測されます。
ここでの「交換」とは、おそらく、現代の商取引のように「交換により自らの利益を得よう(自分発)」という発想ではなく、「相手に喜ばれる・役に立つものを与えよう(相手発)」という本源的な想いではなかったのではないでしょうか?

  • echo
  • 2006年11月7日 22:54

「貿易・通商は略奪闘争を経て始まった」ことに異論はありませんが、引用されている部分と結論の部分はどうつながっているんですか??

  • ☆疑問☆
  • 2006年11月9日 20:30

「外の仲間」意識から「自集団第一(他集団否定)」意識に転換するプロセスを理解するには、長老(ボス:統合者)の意識に同化する必要がある

msg:136166“生殖存在である「女の不安」が私有意識をもたらした”(大木氏)を読むと、母系集団から父系集団に変わったことよる「女の不安の上昇」という…

守護神信仰による捨揚統合の強化と熱狂が、同類殺しのタブーを超え人類を戦争へと突入させたのでは?

前の投稿msg:136859で、「父系集団化→女の不安上昇」から「自集団第一主義」への流れはほぼ押さえられたと思う。
だが、それだけでは「殺し合い」…

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