2010年01月16日
男女別学を見直す
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(画像はこちらよりお借りしました)
日本では戦前までは男女別学が主流であったのが、戦後GHQの主導により、男女共学へと替わって来たと言う歴史があります。
それがここ最近は、日本に男女共学を進めてきた当のアメリカでさえ、男女別学が急速に増えているそうです。
最近のこの兆候は、男女共学の是非、男女の役割とは何かを問い直すきっかけになるかもしれません。
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男女の脳の性差の視点から書かれた本の書評がありましたので紹介します。男女別学に関する事例も合わせて紹介されていますので非常に興味深い内容となっています。***********************************現在、日本では少子化の流れより生徒数の確保の観点から男女共学へと移行される学校もあるようですが、そもそもに立ち返ってどうするかを考えていく必要があるように思います。
また、この書評にある「男の子の脳、女の子の脳――こんなにちがう見え方、聞こえ方、学び方」は読んでみる必要がありますね。
(草思社 立ち読みコーナーより)
【男の子の脳、女の子の脳――こんなにちがう見え方、聞こえ方、学び方】
レナード・サックス 著 / 谷川漣 訳「男の子と女の子は同じ学校でいいのか」
これまで見てきたように、脳のさまざまな部位は、女の子と男の子では異なる順序で、異なる予定表に従って発達する。同じ音符を大声で歌いながら同時に小声で歌うことはできないように、学校をどちらかの性に合わせようとすれば、いきおいもういっぽうの性が犠牲になる。共学校でも男女別の学校でも教えた経験をもつベテラン教師、アンドルー・ハンターはこういう。「男子と女子がいっしょにいる教室で教えるのは、二つのクラスを同時に教えるようなものだ」
この悪い空気を断ち切るには、女の子と男の子を別々に分けることだ。男子だけのフランス語のクラスは、男子女子がいっしょのフランス語のクラスとはずいぶん様子がちがう。男子女子いっしょのクラスでは、フランス語らしい発音でしゃべろうとする男の子はガリ勉タイプだけ、ということが非常に多い。だが男子だけのクラスでは、だれの発音がいちばんいいかを全員で競おうとする。
「男女共学の学校には、ジェンダーの固定観念に向かおうとする、不当で隠微な圧力があるのではないだろうか」とミスター・ハンターはいう。「大方の女子には、基本的に男子のものと思われている教科や活動に参加することをためらう傾向があります。いっぽう男子校では、男の子がこだわりなく本来の自分でいられる。そして男らしくないとみなされそうな分野、たとえば音楽、美術、演劇への関心を深め、才能を伸ばしていけるのです」ベルモント・ヒル・スクール(マサチューセッツ州にある男子校)の校長、リック・メルヴォインも同意見だ。男子だけの環境は、「生徒を型にはめようとする傾向や、男はこうあるべきだといった固定観念から、彼らを自由にします」。
彼の学校では、グリークラブで歌を歌う男の子や学校の演劇で舞台に立つ男の子が、フットボールやサッカーをやる男の子より男性的でないと見られるようなことはないという。やはり男子校であるロクスベリー・ラテン・スクールの教師ブライアン・バックリーも、同じ考えをもっている。「わたしが以前教えていた男女共学の学校では、いつも女子が美術のクラスの中心にいました。しかしここでは、男子が尻込みすることはありません。この男子校では、スポーツの得意な生徒は美術も得意なんです」
皮肉としかいいようがない。共学校にはジェンダーの固定観念を強化する傾向があり、男女別の学校にはジェンダーの固定観念を打ち破る傾向があるのだ。強力な証拠がそのことを示している。女子校の女の子は共学校の女の子とくらべて、コンピュータ科学や物理といった教科を取ることが多い。男子校の男の子は、能力的にはほぼ等しい共学校に通う男の子とくらべて、美術、音楽、外国語、文学を学ぶ例が二倍になる。
男女別の教育の利点は、学業だけにはとどまらない。モントリオールの低所得地域にある公立校、ジェイムズ・リン・ハイスクールの例を見てみよう。五年前に校長のウェイン・コムフォードは、この学校を男女別の組織につくりかえた。女子と男子のクラスを完全に分けるようにしたのだ。この改革があってから、常習の欠席は三分の一に減り、標準テストの点数も一五パーセント上昇し、大学への進学率もほぼ倍になった。それだけでも十分すばらしいのだが、先日ミスター・コムフォードから聞いた話をぜひ紹介しておきたい。リン・ハイにまつわる表向きの報道には決してあらわれないことだが、男女別の方式に変更されてから、一〇代での妊娠の割合がいちじるしく減少したのだ。以前は一年につき平均一五人ほどいたのが、いまは一年で二人ほどになっている。
わたしがこれまで訪れたすべての女子校で、教師、管理職、生徒指導員だけでなく、生徒たちも口をそろえて証言していた事実がある。望まない妊娠の起こる割合が、近隣にある公立および私立の共学校よりもはるかに低いということだ。もちろん、ほとんどの学校では、卵が先かニワトリが先かを判断するのはむずかしい。女子校で望まない妊娠が起こる率が低いのは、もともと妊娠しないような女の子が女子校を選ぶからだろうか? それとも女子校には、望まない妊娠を減らす何かがあるのだろうか? リン.ハイの例は後者の可能性を示している。なにしろリン・ハイの場合、生徒そのものにまったく変化はなく、カリキュラムも先生も、学校の予算も変わっていない。ただ男女別の方式に切り替えただけで、妊娠の率が低下したのだ。
(以上 引用終わり)
上記の事例は、直接は「ジェンダーに対する(誤った)固定観念」がなくなり、それに代わり男女の性差、本来の役割の違いを素直に受け入れ、そこに応えていこうという流れに繋がっていくような気がします。
(「帝塚山大学」開校時の写真)
日本においてもそのような流れがが顕在化してきているのではないでしょうか。
- by saah
- at 09:30



comments
■男女共学について調べてみました。
<Yahoo百科事典からの抜粋>
【戦前の男女別学の教育体制】
強い儒教主義道徳のもとに、明治以降別学の方針がとられてきた。
1891年(明治24)の文部省令第12号「学級編制等ニ関スル規則」で、同学年の女子の数が1学級を組織するに足るときは男女別学級をとることにした。(ただし、小学校の1、2年は例外として共学級をとってきた。)
中等学校においては、男女別学がさらに徹底して、いわば男女の隔離主義がとられ、両者の交流の機会はほとんどみられなかった。
なお、旧制の高等学校は男子の独占するところであり、したがって帝国大学への女子の入学はほとんど認められないなど、性別による教育機会の差別がはっきりと存在していた。
【戦後の男女共学の教育体制】
◆法的根拠
①【憲法】の掲げる個人の尊厳と両性の本質的平等の精神(第13条、第14条、第24条)
②【教育基本法】は性別による教育機会の差別を禁じ(第3条)、さらに男女の共学を奨励した。
すなわち、「男女は、互に敬重し、協力し合わなければならないものであって、教育上男女の共学は、認められなければならない」(第5条)。
<以上,Yahoo百科事典からの抜粋>>
①②共、終戦後のアメリカ(GHQ)が日本に作らせた内容です。
儒教的な男女区別の文化から、「男女共学」には反対意見も多数あったようですが、「男女同権」と共に日本の大衆もこの文化を一気に受け入れていきます。
つまり、「男女同権」「男女共学」を支持・発信する人たちは「進歩派(≒エリート)」文化人であり、反対する人たちは、「封建的」で、古臭い考え方を持った人であると言う世論が形成され普及されました。
★しかし、最近は「男女共学」のメッカともいうべきアメリカで、実は男女別学の良さが見直され始めています。公立校の中には試験的に男子クラスと女子クラスに分けて授業を行って良い成果を上げている事例があるそうです。
背景には、この投稿でも言われているように、「男女同権論」「ジェンダーフリー」などの観念が間違って社会を歪めているという考えが、アメリカでさえ、さらには大衆にも広がってきたからだと思います。
★一方で、日本においては、教育上の理念からではなく生徒数確保のために、男女共学に移行する流れがあります。
★明治時代に取り入れた「男女同権」「男女共学」等が、似非の観念であると言うことがわかり始めてきました。
日本においても、社会における根底部の「男女の役割」「婚姻形態」「男女別学」など改めて戦後の社会システムを再考して作り替えていく時期に来ていると思います。
その様な見直し議論が期待されているのだと思います。
いちもんなしさん、早速コメントありがとうございます。
おっしゃるように、「男女同権」という言葉の偏った見解によって、もともとあるべき男女の役割(違い)を覆い隠してきたのが戦後の意識潮流だったという気がします。
しかし問題の本質は、背景となる社会の圧力(期待)の中身(=市場拡大)が、そうさせたともいえそうですね。
共同体であれば各成員の役割は明解になる。
役割が明解であれば、それに応じた能力の取得が必須になる。
また、その能力の取得の為の教育も重要になる。
よって共同体であれば男女別学は必然となる。
男女別学→男女共学の流れは戦後のGHQ支配や1947年(昭和22年)の教育基本法、昨今の少子化対策としての学校経営問題の観点から取り上げられることが多いが、その背景には集団(共同体)の解体がある。集団が解体され個人が単位となった今、各個人に明確な役割期待があるだろうか?これが男女別学が崩れてきた本質だ。
Rさん、なかなか本質を突いた御指摘だと思います。
私も、そもそもの役割期待の出所となるべき集団=共同体を失ったことが、期待を不鮮明にしてしまい、目的を見えなくさせてしまった原因ではないかと考えています。