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2010年07月21日

「本格追求シリーズ3 共同体社会に学ぶ子育て」6.子替えの仕組み

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画像は今回本文中で紹介する「江戸に学ぶ人育て人づくり」を著された小泉吉永さんのHPの挿絵がいざなう江戸庶民の世界「子どもに生き方を教えた心学道話」よりお借りしました。
前回に引き続き、今回も江戸に学ぶ子育てということで、江戸後期に実践されていた「子替え」の仕組みを紹介します。
前回までの記事はこちら
第1回:プロローグ
第2回:現代社会の子育て問題の実態
第3回:現代社会の子育て問題の実態2
第4回:現代社会をめぐる子育ての意識潮流
第5回:江戸に学ぶ人育て人づくり
  

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今回紹介する「子を替えて育てる」事例が実践されていたのは江戸後期の農村です。
どうしてこのような制度が有効だったのかを構造的に把握するために、最初に当時の農村の状況を簡単に押さえます。
前提として、十全に共同体が機能していた時代・地域においては、農村=共同体の全成員は元より「自分」の子というような意識はなく、「子替え」の必要性はありません。
当時、土地の所有は基本的に「総有制」であり、町と農村は分離されていたことから、農村の共同体は残り続けていました。しかし、(地域差はかなりあるものと思われますが)貨幣経済の発達などに伴って、農村にも徐々に私有観念⇒私権観念が拡がり、貧富の差のようなものも生まれ始めた時代だったと考えられます。
当然、この私権観念は共同体的機能を低下させ、結果として一部の農村は荒廃し、貨幣経済化(と気象状況等による不作)による飢饉の増加もあり、村落共同体がうまく機能しない地域も出始めていたようです。その意味では、町(商人?)が村に介入し始めた時代とも捉えられるかもしれません。
今回紹介する「子替え」を実践した大原幽学も、下総国にあった、そのように荒廃した農村のひとつで農民指導者としての活動を行いました。
このやり方の思想的な背景になっているのは「孟子」の次のようなくだりのようです。

公孫丑曰く、「君子が、わが子を教えないのはどういうことですか。」
孟子曰く、「自然の成りゆきで十分に教育ができないからである。教える者は正しい方向に導こうとしても子どもがそうならないと腹も立つ。また、子どもも、親が聖人君子のことを言いながらも実践が伴わないと思えば、親子の情愛が損なわれる。そのため、昔は子どもを交換して教え合い、親子が互いに善を責めることをしなかった。親子で善を責めれば、親子の離反が生じるが、これほど悪いことはない。」

「孟子」は一種の私権規範であり、だからこそ私権観念がある程度浸透した農村において、有効に機能したものと考えられます。
その具体的なシステムはどのようなものだったのかを、やや長くなりますが「江戸に学ぶ人育て人づくり」(小泉吉永著 角川SSC新書)より引用します。

「子を替えて教える」ことを地域社会で実践したのが、江戸後期の農民指導者・大原幽学(一七九八~一八五七)だった。幽学は、石門心学のように神道・儒教・仏教を融合した独自の実践道徳(性学)を説き、農業技術から農民生活に至るまで幅広く指導し、門人子弟の教育にも力を入れた。
その一つが、子どもを一ヵ所に集めて集団訓練を行う「子供大会」だった。この取り組みは天保末年~弘化初年頃に始まる「預かり子(換え子)」教育へと発展していった。
「預かり子」は、七、八歳から一五、六歳までの子に養育料を付けて他家に預けて一定期間教育してもらったり、お互いに他家の子を預かったりする相互教育システムである。多くは一軒に一、二年ずつ預け、これを数年間続けたが、中には一〇年以上預ける場合もあった。その預け方も、なるべく富家の子を貧家に、貧家の子を富家に預けるように意図された。まさに「他人の飯を食わせる」教育であり、幽学はこのように「子を替えて教える」ことで、「親の溺愛」と「子の甘え」を遮断し、一人前の大人に仕上げようとした。
さらに、幽学は「預かり子」教育にあたる者の心得「子供仕込み心得の掟」二〇ヵ条も定めている。以下はその抜粋である。
一、家内中の者が預かった子を可愛いと思い、人目をしのんで落涙する程に情をかけるのが極上である。
(中略)
一、先祖や親に孝行する志が子どもに芽生えた時、家内の者が心中で大いに歓喜するほどなら良い。だが、これを口に出して褒めてはいけない。とかく子どもの心の先を折らぬようにし、その志をたっぷりと育てよ。
一、子どもが他人の悪を話す場合には、挨拶もせず、知らぬ振りをせよ。その話に同調して耳を貸せば、子どもはきっと墓穴を掘るであろう。
一、家の中に金銭等を取り散らして置いてはいけない。
(中略)
一、ただ情が深いのが極上である。
最後を「ただ情が深いのが極上」と結ぶように、あくまでも「預かり子」にわが子同様の愛情を注ぐことを重視した。言い換えれば「預かり子」は、親たちが「わが子」から「村の子」「地域の子」へと意識転換を図る取り組みにほかならなかった。

大原幽学は武士階級の出身であり、その影響もあってか、私権観念的色彩を多少帯びていますが、それが当時の農村には馴染んだということなのでしょう。
実際、大原幽学は村を越えてかなり多くの門人を集めたようで、そのことがもとで勘定奉行に取り調べられ、罪を着せられることになります。
ここでのポイントは、共同体的思想である「村の子」「地域の子」から、私権的思想である「自分の子」に親の意識が変わりつつあった当時、「子替え」という子育てシステムの導入によって再び共同体的意識を取り戻させようとしたことです。
恐らく、幽学は荒廃した村の根本原因が自分第一の価値観に移りつつあることにあると見抜き、村の次代を担っていく人育てに注力したということではないでしょうか。
また、改めて現代社会を見てみると、人々の意識状況としては私権原理と共認原理が入り混じった状況にあり、当時の農村の意識情況に近いかもしれません。
その意味でも、この仕組みは、現代にもほぼそのまま導入可能な仕組みなようにも思えます。
(参考)
冒頭の写真でも紹介した小泉吉永さんのHPには、「往来物倶楽部」をはじめとしていろいろな情報がありますので、興味のある方はご覧になってみてください。

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