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2010年08月14日

日本人の可能性⑦~なぜ、日本一国が、侵略を免れたのか?(先兵ザビエルの到来)~

連続シリーズ「日本人の可能性」。これまで6回お送りしてきましたが、今回は『なぜ、日本一国が、侵略を免れたのか?』です。
日本人の可能性①~日本人の基点「勤勉」は、充足発の女原理 
日本人の可能性②~西欧と日本の階層意識の違い 
日本人の可能性③~西欧と西洋の民主制の違い 
日本人の可能性④~共同性がの差がもたらす東洋・西洋の観念体系の違い
日本人の可能性⑤~日本人の持つ舶来信仰とは
日本人の可能性⑥~”考えない日本人”のこれからの可能性はどこにあるか? 
前回の記事では「考えない日本人”のこれからの可能性はどこにあるか?」と題して、日本人はこれまで自集団を超える課題については全く考えてこなかった(但し、集団内における当事者意識は高い)という分析を行いました。
今回は、そんな日本人が非白人社会のなかで唯一西欧列強の侵略から逃れた事例を紹介して、日本人の可能性を探って行こうと思います。

ザビエルのペンギン(リンク) よりお借りしました。 
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なぜ、日本一国が、侵略を免れたのか?(先兵ザビエルの到来) (リンク)

以下、
侵略の世界史 
清水 馨八郎 (著)より主要部抜粋引用。
≪なぜ、日本一国が、侵略を免れたのか≫
十九世紀の半ば、白人の世界侵略は、アフリカ、中南米、アジア、太平洋地域を獲りつくし、【残りは極東アジアのみ】となっていた。
アメリカは太平洋を東から西へと侵略の手を伸ぼし、ハワイ、フィリピンをすでに手にしていた。ロシアは沿海州まで獲得し、日本海を隔てて、日本に向ぎ合うところまできた。英仏はすでに中国の分割を開始していた。日、朝鮮、中国、満州をどこが獲るか、興味はその一点にかかっていた。
一八五三年ペリー艦隊の浦賀来航は、こうした中で起きた。
★近世五〇〇年において、非白人の国分ほとんどすべてが白人の植民地に組み込まれていった中で、極東の小国日本のみが、なぜ結果的に独立を保ち得たのか。
日本列島はヨーロッパから西回りで来ても、東回りで来ても、最も遠い国、だから侵略を免れたとみるのは充分な解釈とはいえない。
>★コロンブスのアメリカ大陸到達(一四九二年)からわずか五〇年後、
ポルトガル船が早くも種子島に漂着(一五四三年)している。
☆スペインがインカを滅ぽしたように、日本を抹殺しようとすれば、
けっして不可能ではなかったはずだ。

大航海時代、世界を牛耳っていたスペイン、ポルトガルは世界をこんなふうに考えていました。

紫の線が1494年にローマ教皇アレクサンドル6世が定めたトルデシリャス条約で、ブラジルの辺り(西経46度)の子午線を境に、東をポルトガル、西をスペインの領土としようというものです。その後、「地球は丸いんだから反対側にも線を引かないと…。」ということで定めたのが、1529年のサラゴサ条約です。(地図上の緑色のライン。これがいわゆる世界分割というやつです。)
日本はちょうどその境界線上にありますが、そこへ黄金の国ジパングを求めてポルトガルがインド洋経由でやって来ます。(当然、侵略する気満々。)

十九世紀の問題を考える前に、
十六世紀にさかのぽって第一回の危機について考えてみよう。
≪鉄砲製造で、たちまちのうちに欧米を凌駕した日本人≫
スペインの【ザビエル】がキリスト教の布教のため鹿児島に来日したのは、鉄砲伝来からわずか六年後の一五四九年であった。十六世紀における侵略の先進国のスペイン、ポルトガルの手口は★「鉄砲と十字架」である。日本においても早くもこの二つが揃ったのである。
しかし、日本はここからが違った。ポルトガル人から【たった二挺】の鉄砲を買った種子島の八坂金兵衛は、一年後には一○挺を製作し、数年後には種子島には六〇〇挺の鉄砲があったという。
★改良に改良を重ね、種子島という名の火縄銃は、本場のヨーロッパをしのぐ、猛烈な早さで日本全国に流布し、その機能の改良もヨーロッパ以上に進んだ。ここで興味あるのは、鉄砲が偶然、種子島という名の島に最初に伝来されたことだ。
★その種は忽点ちコピーされて、【全国に普及】したことだ。鉄砲はその半世紀も前に中国に伝わったのに、【支那人の中華思想で真似することも、その技術もなかった。】
鉄砲伝来からわずか三二年後の長篠の戦いで、織田信長軍は鉄砲隊三〇〇〇人を三隊に分けての一斉射撃で、武田軍に勝利している。
≪日本人の特性≫
新奇な物に遭遇した時の日本人の好奇心と、優れた対応とその機敏さは、戦後、トランジスターをみて、たちまちトランジスター商人となり、続くテレビも、自動車も、本場の米国を追い越した例に通ずるものである。
明治維新直後に鉄道を輸入し普及し、やがて世界一の新幹線を走らせたのも、同じ線上の日本人の特性である。

 日本に鉄砲をももたらしたのは、漂着したポルトガル人とされていますが、中国の貿易船だったという説もあるそうです。どちらにしろ、ザビエルの来日した1549年には相当数の鉄砲が流通しており、ザビエルもこれには大いに驚いたようです。何しろこれまで鉄砲を売りつけてきた東南アジアや中国で、鉄砲を自作したなんていう連中はいませんでしたから。(そもそも火薬や鉄砲の原型は中国の発明のはずなんですが…。)
鉄砲がこれほど短期で日本中に広がったのは、物事に同化する日本の職人の優秀さリンク)もさることながら、その贈与体質リンク)によるところも大きかったようです。種子島城主の種子島恵時から鉄砲の複製を命じられた刀鍛冶の八板金兵衛はたいへん苦労してそれを成し遂げるのですが、その製法を当時在島していた堺の橘屋又三郎と、紀州根来寺の僧津田算長へ惜しげもなく伝授します。又、複製に成功した鉄砲は、種子島時尭がすぐに島津藩の殿様へ献上します、そうすると島津藩はそれを足利将軍家へ献上…。このように様々なルートを経て急速に全国へ広まったのです。

次に【侵略支配の先兵であるキリスト教】であるが、当初、信長も秀吉も宣教師を優遇し、布教を許した。
両者ともキリシタンの宗教部分には何の関心も持たなかったが、ただたんに宣教師が南蛮貿易に役立ち、海外情報を知るために利用できたからであった。キリシタンは当初九州で信者を増やし、キリシタン大名たちが勢力を伸ばしてきた。秀吉は九州征伐に際して突如キリスト教布教を禁止し、宣教師の国外退去を命じた(一五八七年)。
★バテレン(神父)の衣の下に【武器を見たから】である。
★確かにザビエルは、【ローマ教会の戦闘的一派ゼスイット派】に属し、教会にはマニラから持ちこんだ鉄砲や弾丸を貯蔵していた。明らかに【当時の神父は、侵略の先兵だった】のである。
家康は当初、貿易奨励のため、キリスト教に寛大な方針を採ったが、慶長十年(一六〇五年)にはキリスト教信徒の数は七〇万となり、教線も仙台にまで延びた。その発展は幕府に脅威を与えるとして、『六二二年、全国的に禁教令を発した
キリスト教禁圧の原因は、
①宗教一揆のおそれがあること、
②神を絶対最高の主とし、その下における一切の平等を主張し、
殉死、切腹などの封建倫理に反する教理を説いたこと、
③日本固有の信仰(神道、仏教)を破壊するおそれがあること、
④ポルトガル、スペインの領土的野心に気づいたこと、
などであった。
★後発のオランダは、先発のスペイン、ポルトガルに領土的野心があることを【幕府に密告】し、独り幕府に取り入って一六三九年、鎖国令が出た後も白人国の中で唯一長崎・出島での貿易を許された。

 当時のスペイン、ポルトガルは、領土的野心を持っていただけでなく、日本を奴隷貿易の供給地としていました。改宗したキリシタン大名を手先に多くの日本人を海外へ売り飛ばしていたのです。
・大西洋奴隷貿易時代の日本人奴隷リンク
・キリシタン大名が50万人の日本娘を奴隷に売却リンク
『行く先々で日本女性がどこまでいっても沢山目につく。ヨーロッパ各地で50万という。肌白くみめよき日本の娘たちが秘所まるだしにつながれ、もてあそばれ、奴隷らの国にまで転売されていくのを正視できない。鉄の伽をはめられ、同国人をかかる遠い地に売り払う徒への憤りも、もともとなれど、白人文明でありながら、何故同じ人間を奴隷にいたす。ポルトガル人の教会や師父が硝石(火薬の原料)と交換し、インドやアフリカまで売っている』

ザビエルを初めとして、当時の神父は、侵略の先兵だった。
学校の教科書で教えられる内容と違い、非常にショッキングな事実ですが、今迄の流れからすると容易に想像がつきます。
十字軍も、キリスト教の仮面を被った先兵だったわけで・・・
キリスト教そのものが、略奪を正当化する為の手段となっている。

 しかし、私権に目が眩んだキリシタン大名はともかく、一般の庶民はキリスト教に対して至極まっとうな反応をしていたようです。
・ザビエルも困った「キリスト教」の矛盾を突く日本人リンク
『日本の各地でザビエルは布教するのですが、出会った日本人が彼に決まって尋ねた事があります。それは、「そんなにありがたい教えが、なぜ今まで日本にこなかったのか」ということでした。そして、「そのありがたい教えを聞かなかったわれわれの祖先は、今、どこでどうしているのか」ということだった。
つまり、自分たちは洗礼を受けて救われるかもしれないけれども、洗礼を受けず死んでしまったご先祖はどうなるのか、やっぱり地獄に落ちているのか・・・・・当時の日本人はザビエルにこういう質問を投げかけた。』
この本質的な矛盾を突く疑問にザビエルも大いに戸惑い、来日2年後の帰国の際には「もう精根尽き果てた。自分の限界を試された。」と告白しているそうです。このあたり、自集団内の当事者意識はとにかく高い、日本人の面目躍如といったところでしょう。
考えてみれば、日本は遣唐使の時代も多くの中国文化を取り入れましたが、科挙と宦官の制度だけは普及しませんでした。日本人は単なる『舶来信仰』だけでなく、自集団内にとって是か非かということに対しては(深く考えているかどうかは別として)取捨選択を行っています。
こうした、上位層から庶民レベルまで、(限定されているとはいえ)当事者意識の高さが、今の日本をかたち作ってきたと言えそうです。今後の日本人の可能性もこのあたりを探っていけば見つかるのではないでしょうか。

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