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2010年09月01日

「本格追求シリーズ3 共同体社会に学ぶ子育て」12 「教育」=「教える⇔教えられる」とはどういうことか?

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前回に引き続き、「子どもの文化人類学」(原ひろ子著)より引用させていただきながら、インディアン社会での子育てを学びながら、現代教育の可能性・欠陥について考えていきます。
現代の日本(や大多数の国々)において、教える、教えられるという行動は「当たり前」のこととして捉えられていると思います。
「子どもの文化人類学」の著者である原氏も、「教えよう・教えられよう」とする意識的行動は人類に普遍的なものであり、実地調査の際には「その文化について教えていただく、その社会に住んでいるひとりひとりの人の生き方について教えていただく」という気持ちが必要であると考えておられるようです。
ところが、ヘヤー・インディアンの人々とも付き合ってみて、この考えを修正するに至ったとのこと。

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以下、「子どもの文化人類学」より引用です。

「学ぼう」とする意識的行動は人類に普遍的といえるが、「教えよう・教えられよう」とする行動は、絶対普遍のものではないと考えたくなってきたのです。さらに、現代の日本を見るとき、「教えよう・教えられよう」という意識的行動が氾濫しすぎていて、成長する子どもや、私たち大人の「学ぼう」とする意識までが抑えつけられている傾向があるのではないかしらという疑いをもつようになりました。

原氏がこのように言うのも、「誰に習ったの?」「誰から教えてもらったの?」という質問がヘヤー語には翻訳不可能、つまりそのような概念体系がヘヤー・インディアンの文化には存在しないようなのです。このことについて、原氏は次のように記しています。

「教える」、「教えられる」という概念がない、ひいては「師弟関係」などが成立しないという、このヘヤー文化の基盤には、「人間が人間に対して、指示・命令できるものではない」という大前提が横たわっているのです。ここでは、親といえども子に対して指示したり命令したりすることはできない、と考えられているのです。人間に対して指示を与えることのできる者は、守護霊だけなのです。

(注:ここでの守護霊とは、様々な事例から見て、超越存在たる自然、つまり精霊信仰における精霊のようなものであると考えられます。)
では、ヘヤー・インディアンはどのようにして「学ぶ」のか、それを象徴的に示している事例を引き続き引用します。
(ヘヤーインディアンの暮らす地域では冬は氷点下50度になることも稀ではなく、凍死と飢えの恐れに晒された凄まじい環境となりますが、その冬支度をしている時期の出来事です。)

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そのころ、私は、厳しい冬をテントでキャンプしながら獲物を追い求めるこのヘヤーの人々と共に、自分がはたして越せるのだろうかという一抹の不安を持っていました。そして、越冬のための心と身体の準備は冬の来る前からやっておかねば、と何度も自分に言い聞かせていました。そんなある日、私のかんじきを手にして考えました。
「さて、冬になって、雪の上をこれでどうやって歩くのだろう。森林の細い道を曲がったり、Uターンするときは、こんなに長いスキーみたいなものをどうさばくのだろうか、いざ冬になって、さっさと早く歩けなかったら、皆に遅れてしまうだろう。冬の遠出で足が遅いと置いてきぼりにされる。そして、そんなやっかい者は、誰のキャンプにも入れてもらえなくなるだろう。ここは、誰にとっても『お荷物はご免』という社会なのだから。さあ、今のうちにかんじきで早く歩く練習をしておきたいものだ」という気持ちになったのです。
そこで、かんじきを雪のない土の上に持ち出し、Dさんに向かって、「かんじきのひもの結び方、歩き方を覚えたい」と教えをこう気持ちでヘヤー語で話しかけました。すると、Dさんと周りにいた老人たちが大笑いを始めました。それは「雪もないのにかんじきなんて!!」というトンチンカンな組み合わせに対する笑いなのでした。
(中略)
しかし、あっという間に冬が来て、人がかんじきをはき始めると、私は目を皿のようにして、人の足元や足運びを観察しました。そして、いろいろなひもの結び方を試みながらテントの周りをぐるぐる歩いて、まだ浅い雪の上でトレーニングをしました。
(中略)
こうなると、「かんじきのはき方を誰にならいましたか」と聞かれた場合、私だって、「自分で覚えたんです」と胸を張って答えるほかありません。

この事例からは、ヘヤー社会において、彼らが見ている対象はあくまで自然であることがわかります。つまり、主圧力の対象たる自然に向き合うことで学ぶ、そうでなければ意味がないということなのでしょう。その際、周りの人のやり方を観察し、真似をする、そして真似をすることで自然から学ぶ。
もっと言えば、彼らが真似をしている対象は必ずしも人だけではないかもしれません。動物(守護霊)なども同化対象としている可能性は十分にあり得ますし、人も動物を含めた自然の一部という捉え方をしているのかもしれません。(つまり、自然と人を対比して考える私たちの思考そのものが彼らの認識からズレていると。)
以上のように、ヘヤー・インディアンの社会では「教える」、「教わる」、もしくは「学ぶ」ということに関して、私たちとは明らかに異なる感覚を持っているようです。
このことについて、仲間と議論している中で、なぜこのような違いが生まれるのか、その違いはどのような結果をもたらすのか、少し見えてきた部分がありますので、簡単にまとめてみようと思います。
まず、「教えられて」覚えることが当たり前になっている私たちにとっては、ややもすると、教えられていないことはできない、教えてもいないことを任せるわけにはいかない、場合によっては教えていないことをやらせるのは危なっかしくてしょうがない(、だから自分がしっかり教えなければ)、というような意識に陥ることがあります。
ですが、改めて考えてみると、このような感覚は本当に正しいのでしょうか?この点を、一緒に議論したメンバーがるいネットに投稿してくれているので、それを引用します。
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考えてみれば、ヘヤー社会で無くても、子どもは「万能観」の固まりで、「不可能視」と言うものがない。自身の子どもを見ていても、(無謀にも)いろんなことを「(自分も)やってみる」と、大人のやることを真似てどんんどんチャレンジしていく。
本来的に「同化」には「不可能視」など介在しえず、「同化するだけ」「やってみるだけ」と言うのが本質なのかもしれない。(当然同化過程における試行錯誤はあるが、それは「不可能視」ではなく、必ず出来ると思っているからこその試行錯誤と言えるだろう)
一方で、「教える」「教えてもらう」と言う意識の根っこには、本質的に「不可能視」が存在しているのではないかと感じる。相手が”出来ない”ことを前提としているからこそ、「教える」必要があり、同時に自分は”出来ない”ことを前提としているからこそ「教えてもらう」必要がある。
「教える」「教えてもらう」と言う教育観を前提とした時点で、「不可能視」が介在し、あらゆる可能性に蓋をすると言っても過言ではないかもしれない。

どうでしょうか?
例えば私たちが子どもに接するとき、大人が過度に外圧(=危険)を排除「してあげる」ような傾向はないでしょうか。子どもはできると思っているのに、大人がその子どもにできないと決め付けて「不可能視」を植えつけてしまう、そんな側面があるように感じます。(言わずもがなとは思いますが、大人が排除すべき危険性があることは否定しません。問題にしているのは、その前提の意識なのです。それが現代に近づくにつれ、どんどん過剰になっているのではないか、ということです。)
そして、この「不可能視」を前提にする以上、現代の若者において思考の浅さ、主体性の欠如を生み出すのは、(やや一面的ではありますが)必然ともいえるかもしれません。
では、このような意識の違いはどこから来るのでしょうか?
ひとつは外圧状況(⇒潜在思念)であると考えられます。
ヘヤー・インディアンが常に対峙しているのは超越存在としての自然であり、主圧力は自然外圧ということになります。一方、現代人にとっての主圧力は同類圧力=人であり、自然圧力ではありません。
外圧に適応していくために向き合う対象は、大きくは主圧力となっているものなので、このことが一因となっていると思われます。
もうひとつは観念の問題でしょうか。
近代以降、西洋社会(⇒近代科学)とその影響を色濃く受けた国において、自然は人類にとって支配(コントロール)すべき対象として認識されてきました。そのような観念を前提にすれば、自然から学ぶというよりも、それと対峙し、学問体系を築いてきた先人に習い、更に発展させるということにしかなり得ません。そうなると意識の先は「先生・親⇒自分」です。(加えて言えば、先程挙げた教育観、つまり「教える」「教えられる」という関係は、支配者にとっては都合がいいため、意図的に広められたものかもしれません。現状は憶測の域を出ませんが…。)
では、最後に私たちがヘヤー・インディアンの「教育」から学ぶべきは、何なのでしょうか。
最も大きいのは、人が何かを学ぶ、ものにするには、そのときの主圧力たる外圧に向き合わせることが不可欠であるということではないでしょうか。
これ自体は自然外圧から同類圧力へと主圧力が移行した現代においても、十分に活かしていけるでしょう。現在は、人が育つ際に感じられる同類圧力が非常に狭い、限定された対象となっています。しかし、主圧力たる同類圧力に向き合うという視点からはそれでは甚だ不十分です。少なくとも何らかの生産集団、場合によっては社会という対象に向き合うことでのみ、同類圧力から子どもが学ぶことができるのではないでしょうか。
もうひとつは、それとも関連して子どもの力に対する認識でしょう。大人があらかじめ外圧を排除したうえで子どもに「やり方」を教え、やらせてみるというような「教育」ではなく、子どもにも生の外圧を実感させた上で子どもの可能性を最大限に引き出すべく一緒に考えていくということでしょうか。ましてや現代は充足可能性の発掘が求められる状況です。前回の記事でも、ヘヤー・インディアンの社会において子育てが最大の充足課題として捉えられていたように、潜在思念豊かな子どもは、大人よりもよほど大きな充足可能性を発掘できるかもしれません。
ずいぶん長くなりましたが以上です。
今後も継続して他民族、他時代の子育てについて扱っていきます。お楽しみに

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