2010年03月17日
人類の進化 7 人類の拡散と絶滅
「人類の進化」シリーズ、これまで、
人類の進化-1 ヒトは何種類いたのか?
http://bbs.jinruisi.net/blog/2010/01/000736.html
人類の進化-2 2足歩行は人類を形成した主要因ではない
http://bbs.jinruisi.net/blog/2010/02/000744.html
人類の進化 3 人類進化の主要動因は過酷な生存圧力からの観念機能の発達
http://bbs.jinruisi.net/blog/2010/02/000746.html
人類の進化 4 観念機能獲得 前夜 ~猿人段階~
http://bbs.jinruisi.net/blog/2010/02/000750.html
人類の進化 5 観念機能の進化 ~言語の起源~
http://bbs.jinruisi.net/blog/2010/03/000759.html
人類の進化 6 ネアンデルタール人は「野蛮」だったか? 人類の生活をどう復元するか
http://bbs.jinruisi.net/blog/2010/03/000764.html
と、お話をしてきました。
今回で、シリーズ最終回になります。
奇跡的に生き残ったホモ・サピエンス一種が現代人となりました。
では、「なぜ原始時代20種以上登場したうちのホモ・サピエンス1種だけが生き残ることができたのか?」について紹介したいと思います。
応援よろしくお願いします。
るいネットの関連投稿 【人類の拡散と絶滅】を紹介します。
◆アフリカでの外圧と進化(猿人⇒原人)
①目に見える外圧=足指の先祖返り(外敵や気候変動に対し不自由)
(適応方策)⇒踊りによる歩行訓練と自然対象への祈り
(獲得機能)⇒観念機能(言葉・道具)→脳増大、歩行能力の上昇
②目に見えない外圧=ウイルス・細菌
(適応方策)⇒恒常的な突然変異と淘汰
(獲得機能)⇒「防衛力」としての免疫機能の上昇
⇒原人に進化(約150万年前)
↓
◆原人による第一次拡散(約150万年前)
(外圧状況)氷河期の開始→森林縮小→生存域の縮小・闘争激化
(適応方策)⇒(①の獲得機能を生かして)アフリカから拡散
⇒アジアへ到達=ジャワ原人・北京原人
◆アフリカ残留組の進化
アフリカの活性度の高いウイルスとの進化競争⇒より高い免疫機能の獲得
(脳容量=知能も平行して進化)
⇒新人に進化(約20万年前)
↓
◆新人による第二次拡散と原人の絶滅(約15~10万年前)
寒冷化(最終氷期)・乾燥化→森林の縮小⇒再度アフリカから拡散
→既にアジアに居た原人と接触→免疫力の格差により原人が絶滅
⇒新人が全世界に拡散・適応し現代人へ
このように、人類は極限的な外圧の下で身体や脳、免疫機能の進化、新しい生存域への拡散など生き延びるための方策を様々に試みてきた。その過程で原始時代の人類は合計で20種以上登場したが、ほぼ全て死滅。奇跡的にホモ・サピエンス一種だけが生き残り、私たち現代人となった。
○知能進化(脳容量増大)の過程
200万年以上に亙る踊り(歩行訓練)と、サル時代に獲得した共認機能を自然対象へ振り向けた祈りの結果、人類は観念機能を獲得し、言葉や道具を使えるようになった。人類は200万年前にはほぼ直立できる(→頭の重量を支えられる)まで進化し、また道具や言葉の使用によって生存条件=食糧事情を改善できた。これらによってさらに脳を大きくすることが可能となり(猿人の約2倍)、より知能を発達させた原人に進化した。(補:この間、猿人は、頑丈な体格の猿人と華奢な体格の猿人など何種類かの種に分かれたが、生き残ったのは体格が小さく=本能上は弱く、知能により依存せざざるを得ない華奢型の猿人の方で、頑丈型の猿人はその後絶滅)
免疫力の格差による原人の絶滅
アフリカは熱帯地域でウイルス・病原菌の活性度が高く、媒介生物も多いため、多様で強力な種が進化し易い(AIDS、エボラ等)。そのため、アフリカに住み続けている人類では、ウイルス等で死ぬ者も多いが、中にはウィルスの進化に応じて耐性を獲得する者が現われ、免疫力が強化されてゆく。一方、アジアはアフリカに比べウイルス活性度は低いため、時間を経るにつれてアフリカとの免疫力の格差が広がっていく。例えば、150万年前にアフリカを出た原人の免疫力を1とすると、15万年前に新人がアフリカを出た段階では、新人の免疫力は10に進化しているのに対し、アジアの原人の免疫力は3~4程度の進化に留まっていると考えられる。免疫力の差が1や2なら絶滅までは至らないが、格差6~7の状態でこの二者が接触することで、免疫力の弱いアジアの原人は新人が持ち込んだ(新人にとっては平気な)強力な病原菌に感染し、絶滅してしまった。
人類が地球上を移動したときに起こる最も大きな逆境が、ウィルスや微生物による逆境のようだ。有史以来人類の移動と共に、多くの民族が絶滅し、または大量の死を遂げている。
ヨーロッパで流行し大量の死をもたらした「ペスト」も人類の移動と密接な関係を持っている。
ペストはモンゴル高原の風土病であり、モンゴル帝国の西方遠征によりペスト菌が伝播(でんぱ)し、中世ヨーロッパの“黒死病”の災厄をもたらしたとされています。
>ペストは、ペスト菌を持った特殊なノミに吸血されることによって引き起こされる感染症です。元来、アジアが発生地でしたが、しばしばヨーロッパにも流行を起こしています。中でも有名なのが中世ヨーロッパにおける大流行で、1346年から1351年の間に肺ペストが蔓延し、ヨーロッパの全人口の1/4にあたる2,500万人(一説によると4,500万人)もの人が犠牲となりました。以来、欧米では黒死病とも呼ばれ、ペストとネズミは恐怖の的となっています。
転換点は農耕の開始であった。農耕の発明は単位面積あたりの収穫量増大を通して土地の人口支持力を高め、余剰作物は家畜飼育を可能にした。家畜飼育の開始は、動物からヒトへ微生物の伝播を引き起こした。
例えば、天然痘はウシの感染症で、麻疹ウイルスはイヌのジステンパーが変異したものだ。インフルエンザはブタと関係が深い。こうした感染症は家畜との濃厚な接触を通して初めて人間に流行することとなる。一方、人口規模の拡大は流行の土壌となった。感染症の流行には、ある規模の人口集団が必要なのだ。
進化生物学者のジャレド・ダイアモンドもその一人だ。彼は、『銃・病原菌・鉄』の中で、ヨーロッパ人が他の大陸を征服することに成功したのは、ユーラシア大陸の環境要因で、家畜との接触を通し、感染症に対する免疫を獲得した強さなどによると説いている
より引用
■歴史の概要
7世紀~9世紀ごろにかけて、ユカタン半島でマヤ文明が全盛期を迎える。12世紀以降、メキシコ中央部(メキシコシティ周辺)を巡って部族間の争いとなり、北部から移動してきたアステカ帝国が覇権を握る。1521年、ヨーロッパからやってきたスペイン人に征服され、その支配下となる。この頃、原住民の人口は大きく減少したが、そのほとんどは、スペイン人との戦争が原因ではなく、スペイン人が持ち込んだ天然痘やはしかといったな疫病に対して、原住民が免疫を持っていなかったことによるもの。以後、スペイン系(クリオーリョ)のインディオ支配に基づく大農場経営が広がる。
アフリカと言う最も厳しい逆境環境(極限的自然外圧+ウィルスと言う見えない外圧環境)に住み続け、進化してきた新人(ホモ・サピエンス)だけが、共認機能・観念機能に加えて免疫機能も発達させ、生き残ることができた。
これが、なぜ1種だけが生き残ることができたのかに対する仮説です。
新人はこの逆境の中で獲得した、共認機能・観念機能、そして免疫機能を全面活用し、全世界に拡散していったのではないでしょうか。
- posted by Hikaru at : 2010年03月17日 | コメント (3件)| トラックバック (0)
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comments
実証主義と呼ばれる現代の科学は、
データがそろわなければ科学的には実証できない。
また、手に入るデータ以外のことは実証できない。
などの限界を孕んでいます。
科学の成果や有効性の全体を否定するものではありませんが、やはりそこに固執することには大きな落とし穴があるように思います。また、現在のような大転換期には、データ揃うまで答えを保留するような悠長な事を言っていられません。
だから、
>まして、全文明史を覆すほどの大転換期だとすれば、歴史を遡って原始人類やサル社会や生物原理にまで目を向ける必要も出てくると思われます。しかし、それらは大部分が未明の領域であり、その解明の為には、固定観念に囚われることなく事実を素直に認める柔軟な頭と、大胆な仮説の提起が何よりも大切になります。(『大転換期の予感と事実の追求』 より引用)
なのだと思います。
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