2006年11月18日
弥生時代の人口増から婚姻の歴史が変わった?!
日本の昔の婚姻史を調べていると婚姻史に大きき変化をもたらした??と思われるデータがありました。それは縄文時代から弥生時代にかけて一気に人口が増加している! というものでした。
その数は約30万人から200万人に急増していた!というもの???
なんでか?
こんな急な人口増加って何か変だな~って調べると...
【渡来人】の流れ込みが原因だった
渡来人登場展 ・大阪府立弥生文化博物館-渡来人登場
現在の年代区分によれば、周知のように縄文時代は約10,000年の年月を持っている。これに対して弥生時代は、紀元前300年紀元後300年の約600年間である。10,000年間、数千人~30万人の間を浮動していた人口は、弥生時代に約4,50万人の増加を見るのである。これは一体何を物語っているのか。温暖化に伴う自然増も勿論ある。しかし、最大の原因は「大陸からの集団での民族大移入」である。中国大陸及び朝鮮半島からの移住者達は、まず北九州に上陸し北九州各地に自分たちの集落を築いた。そして南へ東へと移動していったのだ。これは推測や憶測ではない。弥生時代の遺跡やそれに基づく各方面での研究結果が明らかにした、厳然たる「事実」である。
弥生時代に何があったのかというと、隣国の中国では恐ろしいことが起こっていました。それを紹介しているサイトから引用します。
ANECDOTA 「中国四千年」の虚実
古代中国ではこの数字がピークだったと思われる。この時代、森林の減少など環境破壊が深刻なレベルに達していたことがわかっている。それ以来、中国は気候変動や疫病、戦乱などに対してきわめて弱い地域になってしまった。前漢→新→後漢という混乱の中、人口は3分の1に激減しているのである。
もっとも、戦乱がおこれば大量の流民が発生するし、王朝が人民を把握する能力自体が落ちるから、実際はそんなに減っていない、という見方もできる。実際、後漢の144年には戸数995万、人口4973万という数字を記録している。
真の崩壊は、その後やってきた。2世紀の寒冷化と、それにともなう飢饉・戦乱である。「三国志」で有名な魏・呉・蜀の時代、中国の戸数は全部足しても146万、後漢のなんと7分の1という惨状となってしまった(推定人口は400万~700万)。
三国がそれぞれがんばっても、この程度の人数しか把握できないという光景。これこそ、「ひとつの文明の死」とよぶにふさわしい。世界史上にもまれな一大カタストロフといえよう。
そう、戦乱の時代を迎えていました。結果、大量の流民が発生していたようで、中国から朝鮮そして日本に流れ着いていたようです。それが【渡来人】です。 😈
この時代には、いろんなものが伝えられました。土器や銅鐸、鏡や鉄器などの文化が伝えられ飛躍的に進歩しています。この文明の伝承によって、貯蓄の技術が進み、やがて貧富の差が生まれ、争いが発生するようになります。でも、それよりも恐ろしいものを伝えています。それは【婚姻形態】です。渡来人らはもともと戦国時代からの流民であるが故に、父系制となっています。これが、争いというものが発生しつつある弥生時代においては、力 による父系制に移行されていくのは比較的簡単であったように思います。
また、そのことを裏付けるものを紹介します。
渡来人登場展 ・大阪府立弥生文化博物館-渡来人登場
各地の弥生遺跡から発見される人骨は、彼らが明らかに渡来系の骨格である事を示している。福岡の金隈遺跡( 金隈遺跡 )や山口の土井が浜遺跡(前出)の人骨は、それまでの縄文人の骨格とは異なっており、また今日では「渡来人」達の間での 骨格間にも差異がある事がわかっている。
解剖学者であった金関丈夫(かなせきたけお)氏は、土井が浜遺跡を初めとする北九州の遺跡から出土した人骨を調査し、結果から「混血渡来説」と今日呼ばれる学説を唱えた。それは、一言で言えば「渡来人が従来の縄文人と混血し弥生時代を築き、やがて古墳時代人となっていった。」というものである。世間にはあまり知られていないが、日本人の身長は第二次世界大戦前までは、この渡来人達の身長が約2000年間を通じて一番高いのである。混血後日本人の身長は再び低くなり、鎌倉、戦国、江戸、明治と続いていく約2000年間、一度も「渡来人」達の身長を抜いていない。下右は山口県綾羅・郷遺跡(あやらぎごういせき: 下関考古博物館 )から出土した、面長な弥生人の顔を模した土製の人形である。下の上左の女性復顔の骨格は、弥生時代中期の奈良県長田遺跡で発見された若い女性のものであるが、この女性は井戸の中から上半身のみが発見された。いかなる運命をたどって来たのだろうか。近畿地方に「渡来人」がいつ頃やってきたのかについてはまだ不明である。それは近畿地方からの弥生人骨出土例が少ない事による。 奈良県唐古・鍵遺跡、兵庫県田能遺跡や兵庫県新方遺跡など、まだ数十例しか発見されていない。それについてはまだ今後の考古学の成果を待つ必要があるだろう。また「渡来人」が縄文人と完全に敵対したのではなく、融合・混血して行った証拠も遺跡にある。墓から「縄文系」「渡来系」の人骨が並んで出土するのである。一緒に生活していた動かぬ証拠であろう。
人骨からも「渡来人」と分かっているようなので、間違いないのでしょう!
ってことで、弥生時代から婚姻制度が大転換したのは、この渡来人の【文化】だけでなく【私有】という意識が強く影響したものではないかと思います!
by R.H.T
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- posted by gabor at : 2006年11月18日 | コメント (4件)| トラックバック (0)
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comments
青い目の女神像の写真を見て、引き寄せられるように魅入ってしまいました。
青い目の女神像が遺跡の最も高い場所に存在しており、誰かをモデルにして作られているならば、恐らくその女性は崇められていた存在になると思います。
異なる民族間から生まれた子は何か特殊なものを持っていると考えられたのでしょうかね。
人類婚姻史の一つに異なる民族どうしの婚姻関係は非常に興味深いです。
そう考えると、日本も、弥生と縄文の民族間での婚姻が起こりえたのでしょうかね。
ところで、婚姻と関係ないけど、どうして「目」には不思議な力が宿るのかなァ。
中国当局は、遺伝子検査の結果を受け入れて、中国のタリム盆地で1980年代に発見された、4000年前の貴婦人のミイラと3000年前のミイラをコーカソイド(白人)と認めた。
ミイラと関わってきた西欧の科学者Victor Mairは、「現代のDNAと古代のDNAのテストの結果、ウイグル、カザフスタン人、キルギス人などの中央アジアの人々は、東アジア人とコーカソイドの混血である」という。
http://icke.seesaa.net/article/3245364.html
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replica hermes birkin 共同体社会と人類婚姻史 | 中国古代遺跡で発掘された「青い目の女神像」
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