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2006年11月29日

三内丸山遺跡に400~500人!?

山内丸山遺跡は、1992年に野球場を建設する事前調査において発見されたものだそうです。
後に、この遺跡が大規模な集落跡とみられることが分かり「教科書を塗り替えてしまう遺跡だ。」として騒がれました。
※1994年には皆さんご存じの直径約1mの栗の柱が6本見つけられました。(六本柱建物跡)
p_large11.jpg
しかし、この遺跡は縄文時代における共同体社会を考えてみても、とても説明できない規模の集落になります。組織化がされていない限り統合できなかったはず・・・。

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これについて「こまきのいせきものがたり」(http://www.komakino.jp/)では、あるシンポジウムで論じられていた根拠のない内容に対して、その問題性について強く指摘されています。(http://www.komakino.jp/500-tanzyo/500-tanzyo.htm

このように、まず、著名な考古学者の森 浩一さんが「印象でけっこうですから。」と前置きしながらも、三内丸山遺跡の人口はどのくらいだったか、と誘いをかけます。根拠を明示してなら、どなたもなかなか発言しづらいであろう質問に、著名な考古学者・建築史家たちが次々に具体的な数字をあげていきます。藤田さんがたった一言、4、500人、と口火を切ると、次々、それにみなさん賛同していく。一時期100軒、1軒に4,5人の人が住んだとして総勢4,500人、というところに落ち着いていく。どうして一時期100軒と考えられるのか、誰も明らかにしない。いや、最初からそんな根拠を司会者は求めていないのですから、自由気ままでいいのです。

確かに、根拠を示す事実が無く一方的な流れです。
戦後半世紀にわたって営々と積み重ねられてきた集落研究(ex「水野集落論」、「輪島集落論」)のこれまでの成果をほとんど顧みることもない。しかも、検出された膨大な遺構群の時空的な分布や内容に対する十分な検討もなされないまま、垂れ流されている事が問題だと思います。
このままだと、縄文時代の共同体社会ということすら否定しかねません。
参考:「水野集落論と弥生時代集落論(下)-浸食される縄文時代集落論-(佐々木藤雄)」
http://www.komakino.jp/totteoki/sasaki-mizunoshurakuron/sasaki-mizunoshurakuron.htm
読んでくれてありがとう。ヨネ

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