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2010年08月16日

多様な適応可能性の模索~200万年前のアフリカ大陸の人類

今年( 2010年)になって、ヒトの仲間が、また増えた。しかも2ヶ月連続で!
と言っても、とうの昔に絶滅した化石人類の話。
4月に発表されたのが

【アウストラロピテクス・セディバ(Australopithecus sediba)】

南アフリカ、マラパ洞窟で発見された、200万年前の人類の祖先。研究チームによると、猿人に近いアウストラロピテクス属と、最初期のヒト属(ホモ属)との間をつなぐ重要な種の可能性があるという。
最大でも身長1.2メートル程度と見られるセディバには、ホモ・ハビリスのような初期人類に分類できる重要な特徴が数多くある。長い足や骨盤の筋肉などの下半身を備え、優れたエネルギー効率の歩行や走りが可能だったのではないかと研究チームは述べている。また、小さな歯と現生人類に似た鼻の形も大きな特徴であるという。さらに保存状態が極めて良好だった頭蓋骨からは、右脳、左脳の形が人間と同じように不揃いだったとわかる。

その一方、セディバにはアウストラロピテクス属に似た特徴もあり、猿人に分類せざるを得ないと考えているという。例えばアウストラロピテクス属と類似する特徴として、脳が極めて小さい点が挙げられる。原始的な手首と長い腕という木登りに適した猿人の特徴も兼ね備えている。

ナショナルジオグラフィック ニュース『セディバ猿人、ヒト属の祖先か猿人か』

次に、5月に発表されたのが、

【ホモ・ガウテンゲンシス(Homo gautengensis)】

新種の根拠となったのは、南アフリカ共和国、ハウテン州のスタークフォンテン洞窟で発見された200万~80万年前の頭蓋骨の破片、アゴ、歯、その他の骨の化石である。
出土した6体分の化石から、ホモ・ガウテンゲンシスは直立歩行し、身長1メートル、体重50キロというずんぐりした体型だったと推定される。現生人類と比べると身長の割に腕が長く、チンパンジーのように顔が前方に突き出て歯も大きい。脳は大きくないが、言語コミュニケーションが可能だったと思われる。

ナショナルジオグラフィック ニュース『最古の人類を確認、食人の可能性も』

この新しい仲間達は、いずれも200万年前後に生息していたらしい。(一説によれば)これまで、200万年前のアフリカには頑丈型猿人(パラントロプス・ボイセイ)と三種のホモ属(ホモ・ハビリス、ホモ・ルドフェンシス、ホモ・エルガステル)が共存したと考えられてきた。そこに立て続けに猿人と原人が新たに加わったことになる。
現代では人類はホモ・サピエンス1種のみ。ところが200万年前後には複数の人類の異種、しかも猿人も原人も共存していた。それはなぜだろう?
今回は、『単一起源説vs多地域起源説を切開する』番外編として、
この200万年前はどんな時代だったのか? どうして複数の人類が存在していたのか?
に迫ってみます。
『単一起源説vs多地域起源説を切開する』シリーズindx
vol.1 『起源説の概要』
vol.2 『単一起源説を支持する分子遺伝学的証拠とは?』
vol.3 『ネアンデルタール人、現生人類と交配?』
vol.4 『DNA解析って何? 』
vol.5 『DNA解析って何?-2~分子時計』
vol.6 『DNA解析って何?-3~分子進化系統樹』
vol.7 『DNA解析(先端技術に潜む罠)』
vol.8 『その論争に意味はあるのか?』
vol.9 『まとめ』

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◆200万年前の人類滅亡の危機?
200万年前は『ビーバー氷期』にあたり、自然環境は著しく変化した。

<人類の進化系統図>(『自然の摂理から環境を考える』より)

氷期がアフリカ大陸に及ぼした影響としては、
1、森林の減少
2、砂漠の減少
3、草原の拡大 など
地表面に水分がなくなる事で砂漠化は起こるが、砂漠消滅のメカニズムは砂漠北部と南部で異なり、北部は地中から上昇してくる水分が寒冷化により地上への蒸発しなかった事が主因とされ、南部では雨を降らせる前線帯がサハラ南部まで侵入した事が主因とされる。また、乾燥化に伴って森林も減少している事を合わせてみてみると、食料の減少や、森林の減少による生存闘争の激化などが想像され、それまでの生存域がかなり縮小していったと予想される。
この著しい自然環境の変化→適応不全の増大⇒適応可能性の模索が、猿人から原人への移行を促したのではないだろうか。
◆幾通りもの適応可能性の模索→異種同時共存

 また進化とは、その存在を構成する多数の古い実現体の無数の組み替え可能性の中の一つの外圧適応的な実現である。その無数の可能性の内、外圧適応態たり得る可能性は極めて小さいが、しかし決して唯一ではなく、幾通りもの適応の仕方=進化の方向が存在する。と同時に、完全なる適応態など存在せず、全ての適応態は外部世界に対する不完全さを孕んでおり、それ故より高い適応を求めて進化を続けてゆくことになる。とりわけ外圧が変化した時に、存在の不完全さと進化が顕著に現れるのは当然である。

氷期の到来という著しい自然環境の変化→適応不全に陥った人類は、様々な方向の適応可能性を探索し、各地に拡散していったことで、同時に複数の人類が共存することになったのではないだろうか。それだけ、外部世界に対する不完全さが顕著に現れた時代だったのだろう。
そして、様々な適応可能性の模索の結果、猿人:パラントロプス属の系統は絶滅し、他方の原人:ホモ属の系統が生き残った。では、この両者を分けたものは何か?
◆肉体の大型化・頑丈化に可能性収束した猿人、知能発達=脳進化に可能性収束した原人
絶滅したパラントロプス属は、「頑丈型猿人」と呼ばれ、非常に大型。あごが強く発達していた。この「頑丈型」猿人は、肉体改造を行っていった結果、肉体が大型化・頑丈化していった。しかし、「頑丈型」猿人は、どれだけ本能機能に可能性収束しても、肉体を一定以上大型化することはできず、また、牙や素早い逃げ足も獲得することはできなかった。さらに、あごを頑強にしたことにより、脳容量を増大させることも不可能になり、結果、頑丈な肉体は「中途半端な武器」にしかならず、過酷な外圧状況を生き残ることはできなかった。
一方、原人へと繋がるアウストラロピテクス属は、肉体を大型化させず、代わりに脳容量を拡大させていった。最後の「頑丈型」猿人:パラントロプス・ボイセイの脳容量は約400~500cc。パラントロプス・ボイセイと同時期を生きた原人ホモ・ハビリスは600~800ccにまで脳容量は拡大した。

足の指が先祖返りして、それ以前の獣たちと同様、足で枝を掴むことが出来なくなったカタワのサル=人類は、樹上に棲めるという本能上の武器を失った結果、想像を絶する様な過酷な自然圧力・外敵圧力に直面した。そこで、本能上の武器を失った人類は、残された共認機能を唯一の武器として、自然圧力・外敵圧力に対応し、そうすることによって、共認機能(≒知能)を更に著しく発達させた。
極限状況の中で、人類は直面する現実対象=自分たちを遥かに超えた超越存在たる自然を畏れ敬い、現実対象=自然に対して自分たちの生存(=危機からの脱出)への期待を込め、自然が応望してくれる事を切実に願った。つまり、人類は直面する過酷な現実対象=自然を凝視し続ける中で、元来は同類を対象とする共認機能を自然に対して作動させ、自然との期待・応望=共認を試みたのである。そして遂に、感覚に映る自然(ex. 一本一本の木)の奥に、応望すべき相手=期待に応えてくれる相手=精霊を措定する(=見る)。人類が万物の背後に見たこの精霊こそ、人類最初の観念であり、人類固有の観念機能の原点である。直面する現実対象(例えば自然)の背後に精霊を見るのも、物理法則を見るのも、基本的には全く同じ認識回路であり、従って精霊信仰こそ科学認識=事実認識(何なら、事実信仰と呼んでも良い)の原点なのである。

このように、観念原回路を獲得した人類は、言葉を生み出し、石器の使用をも可能にし、本能機能を越えた外圧適用様式を獲得した。それを実現したのがホモ属の系統だった。一方、本能機能の強化・頑丈化へと向かった(逆行した?)パラントロプス属は外圧に適応できず絶滅した・・・



人類の祖先たちは、適応可能性に導かれて、様々さ適応の仕方=進化の方向を模索し、アフリカ全土に適応拡散し、多様に分岐していったのだと思います。そして、現代の私たちが見ているのは、そのほんの一部だけに過ぎないのでしょう。今後、発掘調査が進めば、さらなる新しい人類の発見もあるのではないかと思います。
そこで大切なのが、個別の人類の追求に留まらず、絶滅種を含め人類全体の外圧適応の歴史=進化の歴史を描き出す事。マスコミでは、「最古の人類、発見」など、センセーショナルな話題ばかり振りまき、その中身がちっとも分からないことが多いですが、そんな報道に振り回される事無く、一つ一つ事実を積み重ねて生きたいものです。
参考にさせて頂いたサイトのリンク
『ヒトは何種類いたのか? 「異種同時共存説」による人類進化』
『人類拡散と氷期の関係』
『脳進化をして生き延びた猿人』

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長江下流域は、日本に水田稲作をもたらした「倭人」たちの生活域ですね。
日本における水田稲作の開始=弥生の開始年代が、2200年前(戦国~秦の時代)⇒3000年前に遡るとすると、長江では、馬橋文化の頃になるのですね?
仮にそうだとしても、すでに「父系に転換した人々とともに伝来した」ということにかわりはなさそうということでいいのでしょうか?
なんでや劇場で扱われた「徐福」の渡来とも併せて、来年も継続追求しましょう。

  • nandeyanen
  • 2010年12月31日 16:54

中国では、5900~5200年前に、父系制に転換していたとは驚きです。その文化が少なからず日本に伝播してくるのですね。
~~~~~~~~~~~
ところで、
■馬家浜(バカホウ)文化期(7000年前~6000年前)
⇒この段階は母系社会と見ていいであろう。
■新石器時代中期後半の崧沢(スウタク)文化期(5900年前~5200年前)
⇒この時代は母系から父系社会に移行する過渡期と見ていいだろう
■新石器時代中期末から後期の良渚文化(5300年前~4200年前)
⇒男性が祭祀権や軍事権という首長権力を身につけていた。
と記載されていますが、そう推察されるに至った判断材料も知りたいとことです。機会があれば、お教えください。

  • 杭全くん
  • 2011年1月3日 17:46

nandeyanenさん、コメントありがとうございます。
3000年前なら馬橋文化期、2200年前なら戦国時代で、ともに父系転換していた人々ですね。
今年もよろしくお願いします。

  • 2011年1月6日 00:51

杭全くんさん、コメントありがとうございます。
根拠は、発掘された墓群の構成や性別分布、副葬品からで、
古くは、墓群は性別分布が優位で、副葬品も男女別で、個体間では差が無いことから、単位集団の共同体が想定されます。よって母系制、つまり子は母を通して出自を知る社会と言っていいと思います。
次に、単位集団の中に(恐らく人口拡大して)氏族集団が登場する段階で、内婚制から外婚制に転換します。最初は母親姉妹を軸にした「母親姉妹+その兄弟たち+娘たち+息子たち」の外婚母系集団だったものが、父親兄弟を軸にした父系制に転換したのではないかと想像しています。
墓群が集団単位に分割されていることと、その後に続く時代からの推測です。
そして最終段階に、際立った副葬品を持つ男性の墓葬の登場です。副葬品から祭祀権・軍事権をもつ首長墓の前身と考えられ、これもその後の時代に続くことからの推測です。
残っている問題は、こういう見ていいのかと合わせて、転換した契機はなんだったのか?です。
記録が残っていない時代で、物証から類推するしかないと思いますので、知恵を拝借したいところです。

  • 2011年1月6日 00:57

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共同体社会と人類婚姻史 | 長江下流域の馬家浜・崧沢・良渚文化

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