RANKING
にほんブログ村 歴史ブログへ
NEW ENTRIES
RECENT COMMENTS
RECENT TRACKBACK

2010年09月07日

「日本人はいつ物を考え出すのか?」(5) 本能的な秩序収束⇒課題収束⇒草の根共認⇒ネット収束

6/27なんでや劇場レポート「日本人はいつ物を考え出すのか?」(5) 本能的な秩序収束⇒課題収束⇒草の根共認⇒ネット収束
「日本人はいつ物を考え出すのか」シリーズ第5回目です。
前回では、力の原理の崩壊から米中欧崩壊という状況に類似しているのは、2600年前の古代宗教が誕生した時代の社会圧力が上げられるのでは・・・?という提起でした。
身近な集団の事は考えられる日本人にとって、この世界崩壊という外圧に対してどう対処できるか?
国家をどうする?世界をどうする?という社会統合に日本人は立脚出来るのでしょうか?
過去のシリーズ
「日本人はいつ物を考え出すのか?」(1)「共認充足が最大の活力源。’10年代はそれだけで勝てる」
「日本人はいつ物を考え出すのか?」(2)「学習観念が役に立たないのはなぜか?」
「日本人はいつ物を考え出すのか?」(3)「騙しの破綻→特権階級は追い詰められている」
「日本人はいつ物を考え出すのか?」(4) 「力の原理の崩壊→米中欧崩壊で日本人は考え始めるか?」


るいネット
メルマガ

にほんブログ村 歴史ブログへ


6/27なんでや劇場レポート「日本人はいつ物を考え出すのか?」(5)
より引用です。

日本人は物的な工夫思考は得意。身近な集団をどうする?ということも考える。ところが、社会的な思考力は貧弱で、「国家・社会をどうする?」ましてや「世界をどうする?」などはほとんど考えたことがない。
米中欧崩壊状態でも、日本人がいきなり世界構想にチャレンジしても無理。そこで取る対策は日本人の体質から見て半鎖国政策(米中欧とは鎖国し、共同体的な諸国と細々と貿易して生き延びる)だろう。それでも「国家をどうする?」を考えないと話にならない。
改めて、歴史的に振り返ってみると、
縄文→弥生の転換期には、大陸の敗者受け入れで何も考えず。
弥生→大和の転換期には、朝鮮半島からやってきた正規軍の圧倒的な力を見て、服属することに決定。
元寇や秀吉の朝鮮出兵では戦うという決断をしたが、
黒船来航では始めは尊皇攘夷だった同じ人物たちが、西洋列強との力の差を知り、脱亜入欧へコロっと転換(脱亜入欧は西洋文明を取り入れただけで自分たちで物を考えたわけではない)。
そして、第二次世界大戦で敗北して、それ以来GHQ・アメリカに服属。
これまでの日本の歴史は、力の論理で説明できる。
日本人が多少なりとも物を考えたのは、外圧=力が働いた時だけであり、その時の判断は戦うか服属するかのどちらかで、ほとんどは服属するという結論に流れる。そして、これまでの外部勢力は常に彼らの秩序を持っており、それを日本に植え付けてきた(日本人はただそれを受け入れてきただけ)というわけである。
今回は、力の外圧ではなく、力の空白状態、つまり力の原理の崩壊=世界の秩序崩壊という、嘗て経験したことのない状態である。
%E3%83%9E%E3%83%83%E3%82%AB%E3%83%BC%E3%82%B5%E3%83%BC.jpg%E3%83%9E%E3%83%83%E3%82%AB%E3%83%BC%E3%82%B5%E3%83%BC%EF%BC%8B%E6%98%AD%E5%92%8C%E5%A4%A9%E7%9A%87.jpg
マッカーサー                            昭和天皇とマッカーサー

戦後の日本を引き出してみても、支配される文化(服属文化?)は引き継がれてしまいます。
とは言え、敗戦を期してしまった当時は、アメリカから輸入された近代思想は輝いて見えたに違いありません。
しかし今、その思想にも陰りが見え始め、「力」という原理では答えが出せないことが潜在思念をはじめ、その構造が分かり始めてきました。

秩序崩壊は、本能⇒共認⇒観念の意識構造上、とてつもなく深い位置にある。本能は一つの秩序体系そのものであり、秩序崩壊は本能にとって絶対にあってはならない事態である。人々が秩序収束しているのはその適応本能の働きである(嫌煙権やマナーファシズムなどもその歪んだ事例)。最近では秩序収束から更に進んで、人々は課題収束に向かっている。昔は遊び第一だった学生が今や授業にほとんどが出席するのも、企業でも今や7~8割の社員が定年までこの会社に勤めたいという言うのも、課題収束の現れである。
このように、秩序崩壊は本能を直撃する⇒新たな秩序構築のために「どうする?」という思考が本能的に登場する。この本能的に発生する問題意識は、どんな場面で登場するか?
飲み屋でも、数年前までは女や遊びの話ばかりだったが、今やどのテーブルでも仕事や部門の話に変わっている。遊び→仕事や集団の話に数年間で大転換したわけである。
このような草の根の共認形成が、企業だけでなく身近な地域集団でも起きる。そして、小さな共認形成の場が社会の至る所で無数に形成されるはずである。そこでの課題意識(秩序形成をどうする?)に対する答は新聞やTVにはないので、草の根の共認形成はネットに収束する。そこに至って初めてネットの共認形成力がマスコミの共認形成力を打倒する。
その過程のどこかで勉強会や劇場などの場が作られるが、原点として重要なのは、場が与えられるのではなく、本能的に至る所で共認形成の場が作り出されるということである。そこではネットの情報も草の根の共認形成の場にフィードバックされる。そして、この草の根の共認形成⇒ネット収束がマスコミを打倒することができれば(社会統合の)事は成ったも同然であり、残る問題は政治過程をどうする?といった手続き上の問題にすぎないことになる。
今後の追求すべきテーマとして、次の3点の問題が残っている。
①マスコミが主導権を失ったとしても安心はできない。∵現在のネット界の大半は旧観念(近代思想)に囚われているからである。これを突破しない限り、新秩序は構築できない。
②草の根共認、そこでの人々の問題意識、状況認識はどういう中身で、どういう変遷を辿るのか?
③社会を統合するためには新理論(⇒人類の意識構造・社会構造の解明)が不可欠だが、草の根の共認形成とネットから新理論が形成されるのか否か? また、新理論を欠いた政治革命路線は危険性を孕むが、そこに絡め取られる可能性もある。

「力の原理」で統合されていた社会は、世界で勝ち抜いていくこと(=冨の拡大)が最大の課題でした。
そして、その拡大戦略に飲み込まれてしまった日本人は、この先の世界崩壊にも巻き込まれる可能性を孕んでいます。
そういう意味において、上記の問題提起は可能性への突破口でもあります。
失いかけた共同性を甦らせる意味でも、旧観念からの脱却~新理論の獲得は皆の共通課題となります。

> List 

trackbacks

trackbackURL:

comments

mbt ireland 共同体社会と人類婚姻史 | キリスト教の性否定観念 ~『キリスト教とセックス戦争』より~

共同体社会と人類婚姻史 | キリスト教の性否定観念 ~『キリスト教とセックス戦争』より~

comment form
comment form