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2008年02月28日

かつて日本では、子供は神の子であった。

昔の日本人は、子供をどのように認識していたのだろうか?
宮田登氏の『老人と子供の民俗学』(白水社、1996) では、「七歳までは神の子」と、当時の子供観を解説してる。
どういう内容を紹介します。
↓その前にポチットお願いします。

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2008年02月27日

「ひな祭り」と「婚期」って関係あるの?

3月3日は「ひなまつり」ですね。
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コンパクトになった雛飾り
世間では、ひな祭りを祝うための雛人形を飾ったり、各地で様々なイベントが行われていたりで、ちょっとしたお祭りムードの様です。また、それに便乗してあれやこれやの工夫も菓子メーカー等で繰り広げられています。
それはさておき、良く昔の人は
「3日を過ぎても雛飾り(人形)を片付けていないとお嫁に行けなくなる」
という話をしていました。皆さん聞いた事はありませんか?
私の家でも、良く姉がそう言うことを言われていたことを記憶しています。
(ちなみに姉は晩婚だったので、少し信じてしまいましたが・・・。)
本当にお嫁に行けなくなるのでは?と思ったことはありませんか?
この先の話はこちらをポチポチっとしてからどうぞ。

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2008年02月26日

3月3日:桃の節句の意味とは

3月3日の ひな祭り、桃の節句 は、五節句の一つです。
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皆さん 五節句 って知っていますか?
江戸時代に、五節句を式日(儀式を執り行う日、祝日)として制定して庶民に広がったらしいのですが、何故 式日に決めたんでしょうか?
↓先ずはポッチット お願いします。

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2008年02月25日

桃の節句にはどんな意味があるのか

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(晃月人形HP「桃の節句は五節句のひとつ」より)
もうすぐ3月になりますね。3月3日には、女の子のいるご家庭ではお雛さまを飾って雛祭りをしますね。 😀 今日は雛祭り桃の節句についてその由来を調べてみました。
桃の節句は端午の節句などと並んで5節句のひとつです。
もともとこれらは季節の変わり目で、奇数の重なる日(=奇数(陽)が重なると陰になるとしてそれを避けるための避邪の行事を行った)を取り出して、季節の旬の植物から生命力を貰い邪気を払う目的の為だったようです。つまりは女の子の為の祭りでも、男の子為の祭りでもなかったわけです。それがなぜ、3月3日は女の子の為の祭りになったのでしょうか。
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2008年02月23日

産婆さんの消えた日本

男と女の役割分担を極限にまで特化させることで生存してきた人類。
その中でも、女の人たちの「出産」は、長い間、命をかけたものでした。
そうした中、みなの期待を受けて産婆が登場します。
今回はお産の民族学を参照させていただきながら、「お産」に隠された市場原理の問題を考えてみたいと思います。

産婆というのは、赤ちゃんを取り上げる仕事と、祈りをする仕事のふたつがあった。お産は、あの世からこの世へ、魂が移行してくるとき。昔は、お産で命を落とす赤ちゃんや母親が今よりずっと多かったため、これを“もののけ(邪気のようなもの)”が命を奪いにくるためと、考えていた。そのために、“もののけ”に囚われないように、お祈りをしたのだ。

昔はこの“婆”という言葉には、尊敬の念が込められていたのではないかという説もある。先住民族などが俗に言う“長老”といった、目上の智恵のある人にたいする名称が“婆”だったというのだ。

現在は、助産師と呼ばれますが、「産婆」と「助産師」では求められる役割が決定的に異なってきているようです。
いったい、何が起こったのでしょうか?

日本は、第二次世界大戦に負けたおかげで、出産に関してアメリカの影響を戦後、もろに受けてきた歴史がある。戦後、GHQが入って憲法をつくったように、お産もまた、アメリカ方式を学ぶようにとされ、日本の伝統的産婆術は、戦後大きく変わってきた。

それまで、自宅で助産婦を呼んで出産してきた「日本のかつてのお産」は、一九六◯年に自宅と施設の割合が半々になり、その後、急激に医療施設へと移っていく。これはGHQによって「出産はすべて施設で行われるのが望ましい」というお達しが出されたのと、医学そのものが西洋、とくにアメリカの影響を大きく受けていたからだ。

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2008年02月21日

中世ヨーロッパの農村:支配権力による「作られた共同体」~農業システム「三圃制」と農村運営「共同体規制」について~

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(フランドルの暦6月)
東洋と西洋。
今回は、前回(中世ヨーロッパの支配形態~「古典荘園制」と「裁判領主制」について)に引き続き、中世ヨーロッパの農村に迫ってみたいと思います。
☆中世ヨーロッパの村落共同体とは?
「共同体というよりも領主との契約関係が重視される中での共同体の在り様がどのようなものだったのか?(前回疑問)」
そして、「裁判領主制という支配体制の下で、農村(農民)はどの様にまとまっていた(統合されていた)のか?」
について、探っていきたいと思います。
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2008年02月14日

婿養子は、日本固有の制度?

婿養子の制度は、中国、韓国には無い日本固有の婚姻制度らしい。 🙄
しかし、現在は法律上は無くなっていると言う事実を知っていますか?
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2008年02月11日

南インド ドラヴィダ人:ナーヤルの母系社会~ドラヴィダ人とは?

『インド南西部ナーヤル・カースト~婚姻様式とカースト制度』に引き続いて、インド南西部ケーララのドラヴィダ人:ナーヤルの母系社会に迫りたいと思います。
ナーヤルの社会は全インドのヒンドゥ・カーストが父系制であるのに対して、(明確な資料が残っている範囲という条件は付きますが)例外的な『母系大家族制』でした。それも、ヒンドゥ・カースト社会から孤立していたわけではなく、ヒンドゥ・カースト社会の一員として母系社会を維持していました。しかし、この制度はイギリス支配下で大きく変化し、最終的にはインド独立後の1976年の「ケーララ合同家族制度(廃止)法」によって法的には消滅しています。
☆父系社会の中のナーヤル母系社会とはどんなものだったのか?なぜ、そのような社会になったのか?
☆20世紀まで続いたその母系大家族制が崩壊したのはなぜ?
☆そもそも、ドラヴィド人って?インダス文明との関係は?
などなど、ドラヴィダ人:ナーヤルの母系社会にはたくさんの「なんで?」が浮かんできます。これらの「なんで?」に少しでも迫ってみようと思っています。
それには、インドについて、これまでの一般的な「インド=アーリア文化」という一面的な捉え方ではなく、「北インド・アーリア文化」「南インド・ドラヴィダ文化」という切り口が手がかりになりそうです。まず、そもそもドラヴィダ人とはどんな人々なのか?その歴史をしらべて見ました。
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2008年02月09日

遊牧部族発の戦争の起源(今西説)

日本の霊長類学の創始者であり、棲み分け理論で知られる故・今西錦司氏も、著書『世界の歴史1~人類の誕生~』(河出出版)の中で、遊牧民族による農耕民族への略奪が戦争の起源であると論じています。
今西氏は、西アジアの砂漠オアシス地帯において、灌漑農耕をしていた農耕民族の城壁遺跡に着目し、「農耕民族は誰から何を守るために城壁を作ったのか?」という視点から、考えられるのは牧部民族であると展開しています。
 遊牧民族は何のために農耕民族に攻め入ったのか 
いずれも狩猟採集から出発し、農耕と遊牧という生産様式に発展した当時の民族の状況を対比しながら、今西説を要約します。
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2008年02月07日

ニホンザルの社会構造 オスの順位制とメスの血縁制

哺乳類の社会ではオスとメスが別々の群れを作って生活しているものが多いが、霊長類になるとオスとメスが一緒になって一つの群れを作ります。
サルから人類への道は、樹上から地上へおりることから始まり、やがてオープンランドで地上生活し雑食するという生活形のサルの中から現れてきます。ニホンザル、ゴリラ、チンパンジーがこの系統ですが、ここでは樹上4、地上6の割合で生活し、20頭から150頭の群れを作るニホンザルを見ます。(今西錦司著『世界の歴史1人類の誕生』より)
ニホンザルの群れは中心部と周縁部という二つの部分からなる同心円状の社会構造をもっている。中心部はリーダーとメスと子どもからなり、周縁部は若いオスが占める。このような社会構造は、オスの順位制メスの血縁制という基本原理が組み合わさって形成されます。
応援よろしく  by岡

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