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2006年11月22日

一夫一婦制家族=ファミリーの意味

私有婚(一夫一婦制)はどのようにして登場したのであろうか?
比較的資料の残っているギリシア、ローマの私有婚を参考としたい。
私有婚(一夫一婦制)家族――排他的同棲が制度の本質的要素――を表すファミリー(family)は、ラテン諸部族間の文明時代に出現したらしい。
以下、モルガン『古代社会』より。(注)モルガンのいう文明時代とは、ギリシア、ローマに都市国家が出現する前8~7世紀頃より以降のこと。
ファミリーは、ファミュルス(famulus)、すなわち僕婢と同一の要素を含むファミリア(familia)から出たが、ファミュルスはオスカン語(南イタリア人の言葉)のファメル(famel)、すなわち奴隷(servus)から出たと推測される。
ファミリーの原義は、結婚した夫婦または彼らの子供とは何らの関係を有せず、家族の維持のために働き、そして家長の権力の下にあった奴隷や僕婢の団体と関連したのであった。
遺言におけるファミリアは、パトリモニューム(patrimonium)、すなわち相続人に承継された遺産と同義語として用いられる。それは、首長が父権のもとに妻や子および奴僕の一団を保持する新しい有機的組織体を定義するために、ラテン社会に導入されたのであった。
従って、この言葉およびその表す観念は、ラテン諸部族の厳格な家族組織より古いものではなかった。これらの家族組織は、ギリシア人とラテン人の分離以後であるとともに、畑作農耕以後および奴隷制の公認以後に現れたものである。
――以上、『古代社会』より――
どうやら氏族集団に新たに加わったよそ者である奴隷(恐らく最初は女奴隷、次第に農耕・牧畜・家事奴隷も加わってきた)を組織するための体制変革であること、そしてそこに資産継承の単位集団という意味合いが組み込まれていったようだ。
ただし、私有婚がラテン社会に起源を持つかどうかは検討を要するだろう。
読んでもらってありがとう(^_^) by岡

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2006年11月21日

日本における先土器時代(縄文以前)の集落について

 縄文以前の日本にはどのような人達が暮らしていたのだろう?
先土器時代と呼ばれるこの時代、日本においてはナイフ形石器や細石刃を用いた人達が少なくとも約3万年前には生活していた(岩宿遺跡が有名)。
彼らは当時地続きであったシベリアからマンモストナカイ等の大型獣を追ってやってきたらしい。なんか日本でもギャートルズのような世界が繰り広げられていたかと思うと感慨深いが、ゴン(ギャートルズの主人公)のように1家族だけが孤立して生活していたわけではない。
マンモー↓

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2006年11月19日

弥生時代の人口増から婚姻の歴史が変わった?!(その2)

縄文時代の後期(晩期)から弥生時代にかけて人工の爆発的な増加があった事は、ちょっと調べてみると様々な説で論じられていますね。
今回は、その根拠となる二つの説をもとに考えてみたいと思います。
①渡来人が大量に上陸したから。 🙄
(「弥生時代の人口増から婚姻の歴史が変わった?!」 R.H.Tさんの記事を参照してね!
http://www.jinruisi.net/blog/2006/11/post_52.html
②大陸から伝来した稲作が定着したから。 🙄
いづれも、遺跡や他国との歴史上の関わりから相互に関係しているとも考えられますが、一方で「稲作の定着の方が有力(普通)」と考える論調もあるようです。
また、人口増の背景となる集団の構成や婚姻様式が大変気になります。共同体集団である縄文人と、父系制であろう大陸渡来人との間では、どの様な接触・交わりがあったのでしょうか?

気になる方は続きをどうぞ・・・。↓↓↓

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2006年11月18日

弥生時代の人口増から婚姻の歴史が変わった?!

日本の昔の婚姻史を調べていると婚姻史に大きき変化をもたらした??と思われるデータがありました。それは縄文時代から弥生時代にかけて一気に人口が増加している! というものでした。
その数は約30万人から200万人に急増していた!というもの???
なんでか?
こんな急な人口増加って何か変だな~って調べると...
【渡来人】の流れ込みが原因だった
渡来人登場展 ・大阪府立弥生文化博物館-渡来人登場

現在の年代区分によれば、周知のように縄文時代は約10,000年の年月を持っている。これに対して弥生時代は、紀元前300年紀元後300年の約600年間である。10,000年間、数千人~30万人の間を浮動していた人口は、弥生時代に約4,50万人の増加を見るのである。これは一体何を物語っているのか。温暖化に伴う自然増も勿論ある。しかし、最大の原因は「大陸からの集団での民族大移入」である。中国大陸及び朝鮮半島からの移住者達は、まず北九州に上陸し北九州各地に自分たちの集落を築いた。そして南へ東へと移動していったのだ。これは推測や憶測ではない。弥生時代の遺跡やそれに基づく各方面での研究結果が明らかにした、厳然たる「事実」である。

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2006年11月15日

北西アメリカインディアン社会で行われた「ポトラッチ」

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北西アメリカインディアン社会で行われた「ポトラッチ」は、相手を上回る「気前の良さ」を示して社会的な評判・威信・名誉の獲得を目指した儀礼的な贈与競争です(写真は現代のもの)。

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2006年11月14日

倭人(わじん)の意味?

倭人(わじん)、倭国(わこく)これは日本人や日本の国をあらわす言葉です。
これは記録に残るもので、古いものには後漢の班固が撰んだ『前漢書』に「楽浪の海中倭人あり、分かれて百余国となる・・・」とあることから、少なくともA.D.25年以前(日本では弥生時代)からそう呼ばれているようです。
倭人(わじん)、倭国(わこく)を誰が最初に使い出したか(名付け親)は大きく分けて2説あるようで、 一つは中国人がそう呼んだと言う説(※詳しくは 『新しい日本の歴史』No12 倭人・倭国・日本・ジャパン 参照)
もう一つは日本人自らそう呼んだと言う自称説(※詳しくは『歴史言語学と日本語の起源』第五話 「倭国」「倭人」の語源は何か?
人類の対象同化能力(外識機能→内識機能)から考えれば、先ずは自分以外の外の対象を捉え『様子(外識)』→『特徴(外識)』→『称号(内識)』→『名称(内識)』と内識機能によって名付けられることが自然だ思うので、私は倭人(わじん)、倭国(わこく)とは自分以外の誰かによって名付けられた=中国人によって名付けられたと言う前者が正解であると考えています。 🙄
では、倭人(わじん)とはどんな意味があるのでしょうか?
(古代の日本人はどのように見られていたのでしょうか?)
ちょっと興味惹かれちゃった方、以下をポチットクリックしてね

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2006年11月12日

6000年前;黄河中流域「仰韶文化」以前4千年の空白?

長江流域に続き、黄河流域における略奪闘争伝播の系譜を調べてみました。
「仰韶文化(6800~4500年前)の間に母系から父系に転換したらしい」というところまではわかりましたが、生産様式の変遷や民族的な系譜は殆どわかっていないようです。(るいネット『仰韶文化とその周辺の黄河文明の補足』参照)
中国でも自ら≒『漢民族』の出自解明がブームのようですので、当ブログでも父系転換以前の約4千年の空白を埋めるべく追求していきましょう!(by nandeyanen)
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地図の拡大図はこちら
『古代で遊ぼ>黄河流域の初期文化』より、6000年前頃の状況を見ると・・・・・

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2006年11月09日

結婚をまとめるのは女の仕事?

みなさん、古代中国やインドなど、インターナショナルかつ考古学的な感じですね 😀 わたしは、かなり地理的にも年代的にも身近な、日本の離島の婚姻についてのお話をご紹介したいと思います。
本日、たまたま見つけたのは、山口県の見島という離島の結婚のお話。

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見島(みしま)は、山口県萩市に属する島。面積 7.73km、人口約1200人。 南側にある本村地区、北側にある宇津地区の2つからなり、本村の北側・払子には航空自衛隊の基地がある。見島郡に所属していたが明治29年(1896年)4月1日阿武郡に編入された。(Wikipediaより)

出典は、「わたしの見島」(原一男監督)というドキュメンタリー映画のために、スタッフが行ったフィールドワークをまとめた、「CINEMA塾」テキストリンクです。
続きを読みたい方は、↓をクリックしてからどうぞ

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2006年11月07日

狩猟部族の勇士婚はアメリカ原住民に見られる

狩猟部族の“勇士婿入り婚”の事例がはっきりしなかったが、アメリカ原住民の対偶婚から勇士婚が存在したことが伺えます。
モルガン(『古代社会』1877年)は、採集・漁労部族=南方モンゴロイドの兄妹婚→交叉婚を原始の婚姻制としており、人類500万年のうちの99%以上を占める極限時代の首雄集中婚や、狩猟部族=北方モンゴロイドの勇士婚の系統を考慮していない。
(注)交叉婚、勇士婚とも母系だが、全男子が全女子と通婚する兄妹婚→交叉婚(氏族の異なる男女の組み合わせで移籍なし)の系統か、
首雄(族長)やその資格を一段下に拡張した勇士のみが、全女子と通婚する首雄集中婚→勇士集中婚(勇士婿入り婚)の系統かで、異なる。
ヨーロッパ人の世界侵略の過程で現存していた原始婚姻制がポリネシア等の兄妹婚または交叉婚だったことや、極限時代は乱婚(全員婚)と考えたことから、両者の区別を捨象し交叉婚の系統だけを措定したと思われます。

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2006年11月06日

貿易・通商は略奪闘争を経て始まった

現在に繋がる貿易や通商の始まりと、交易の始まりは何か断層があるように感じます。
交易の始まりの時点では、部族間でお互いに必要となるものを補完しあう、助け合うための行為ではないかと思われますが、貿易・通商では、少しでも有利な取引とするように駆け引きが前提としてあり、互いの私益の妥協点として取引が決まっていく関係なのではないでしょうか。

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