2014年03月07日
日本婚姻史再読シリーズ 妻問婚から婿取婚への移行期(古墳時代~飛鳥時代) 氏族の誕生と継承
日本最大の前方後円墳 仁徳天皇稜
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日本婚姻史再読シリーズ、今回は弥生時代の次、古墳時代~飛鳥時代です。
今回は以下の記事より始めます。
日本婚姻史1~その7:大和時代以降の婚姻制度【嫁取婚(父系制私有婚)の登場】2010年03月23日
みなさん、こんにちは。シリーズ「日本婚姻史1」その7をお届けします。
前回の「弥生時代後期の婚姻制度【支配層で萌芽した私婚制】」では、弥生初期に江南からの渡来人が持ち込んだ「私権意識と私権制度」、その基盤である「妻問婚」という対遇婚が、次第に拡大していく様子を見ました。
Ⅰ.妻問婚 :大和~奈良(710年~)頃まで
Ⅱ.婿取婚 :平安(794年~)から鎌倉頃まで
Ⅲ.嫁取式婚姻 :室町(1390年~)頃の3段階の婚姻制度について、高群逸枝著『日本婚姻史』の抜粋から紹介します。
日本では、少なくとも平安時代までは私権統合国家の支配階級も、妻問婚~婿取婚という対遇婚に移行しながら、母系氏族を生活拠点とする母系制的婚姻制が継続され、私有婚へと移行することはなかった。この点は、略奪闘争により母系氏族=本源集団をことごとく解体しつくした西洋と大きく異なる、日本の特徴といえそうです。
上記を再読しましたが、この記事の引用元は高群逸枝女史の「日本婚姻史」です。しかし、ここでは、「妻問婚という対偶婚」だったり「妻問婚~婿取婚という対偶婚」といった記述が見られますが、分かり難いので少し解説します。
いままで族内婚であった集団が、「肉親的自覚」によって、他の族内婚の集団と交婚するようになって族外婚となったとし、これがモルガンのプナルア婚に相当するとするのである。プナルア婚のあとに対偶婚を置き、これが鎌倉時代までつづくとし、この二つの婚姻形態をじぶんの集団の外のものと婚姻するということで、「族外群婚」とするのである。族内婚と族外婚 ‐高群逸枝のばあい‐ 石原通子
因みにモルガンの「プナルア婚(punaluan marriage:妻の姉妹・夫の兄弟との自由婚)や対偶婚(syndyasmian marriage:複数の兄弟姉妹集団間の集団婚group marriage)」(ことバンクsyndyasmian marriage)と、一方で、族外の男が母系集団に通ってくる妻問の形式を認め、更には婿取りも含めて古墳時代~鎌倉に至るまでの時代の婚姻を全てモルガンの対偶婚と対比しています。その際の注釈として、妻問+婿取り=対偶婚(群婚的多妻多夫遺存)としています。
しかし、前回見たように、妻問婚について、まずは「族外の男が母系集団に通ってくる」と言う点と、記紀に見られる神々の婚姻が一夫多妻で、これより以前の全員婚(乱婚、総偶婚、族外総偶=交差婚、群婚で母系)に対して父系への取り組みであると認識し、あえてモルガンの主張(対偶婚)と対比する必要はない、とも思います(これらは、文献調査や実地調査(フィールドワーク)などの成果として単に「事実」を記載するだけの弊害で、「何故そうするのか」「そうする必然性は何か」を考慮しない結果であるとも思います)。
本記事では、変化とともにその必然性を考慮していきたいと思います。
(※「対偶婚」に関しては、更に平安時代の比較的短期間夫婦が同居する自由恋愛を言う向きがいるようですが、これには正直疑問を抱かざるを得ません。)
前置きが長くなりました。日本婚姻史の再読シリーズ、今回は、古墳時代~飛鳥時代の妻問婚導入直後の様子を検討したいと思います。
- posted by NISI_G at : 2014年03月07日 | コメント (0件)| トラックバック (0)